私達の食生活において麺類で、蕎麦・うどんについては欠かせない存在であります。特に蕎麦においては、秋になると新蕎麦の収穫が始まり、蕎麦屋さんでは「新そば入荷しました」の貼り紙が目立ちます。
12月になると年越し蕎麦の話題が出て、街では大にぎわいの報道が流れます。俳句では「そば」は秋の季語にもなっています。
日本において長く培われたそば文化のルーツや、日本における蕎麦の歴史やそれぞれの時代での移り変わりなど紐解いて行きたいと思います。
蕎麦のルーツ
蕎麦は日本独自の食べ物で外国には無いものと思っていました。
しかし、蕎麦の原産地は中国の江地と呼ばれる東チベット、四川省、雲南省の境界領域で栽培されたと言われています。
その後、長い年月を経て日本に渡ったと考えられます。
仏教はインドで生まれ、約1000年以上経過し日本に伝来したと言われています。発祥地の違いはあっても、蕎麦もほぼ同じようなルートで日本に伝わったのでしょうか。
いずれにせよ、長い年月と大勢の人の手により伝えられたと考えられます。
日本での栽培
日本における蕎麦の栽培は、高知県内の遺跡から9300年前蕎麦の花粉が出土しており、埼玉県内の遺跡からは3000年前の蕎麦の種子が発見されています。したがって約9300年前から食べられていた事になります。
稲作が日本に入って来たのが縄文時代の後期約2800年前とされていますので、蕎麦はそれより早くなります。また、初期の蕎麦は、現在のような麺状ではなく、粒のまま粥として食べたようです。
では、稲より早い蕎麦はなぜ主食になれなかったのか。蕎麦の殻が硬く脱穀が困難だったようです。一方米は人々の生活を支える主食となりました。
時代ごとの蕎麦
奈良時代
「続日本紀」では蕎麦の記述があり、日照り続きでは稲の収穫が見込めない中、日照や冷涼な気候にも強く、栽培する土地もさほど選ばないため、麦とともに、栽培が推奨されていました。
蕎麦は凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけられ「そばむぎ」と呼ばれていました。
平安時代
この頃は、貴族や僧侶には「蕎麦が食べ物である」という認識はうすく、
蕎麦は農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する程度の雑穀だったようです。
鎌倉時代
鎌倉時代では中国から石臼(いしうす)の技術が伝わり、蕎麦粉を大量に挽くことができるようになり、「そばがき」と呼ばれ、団子やもちのようなそばで、箸でちぎり汁に付け食べられていました。
室町時代
これまでの団子状の「そばがき」から麺状のそば「そば切り」と呼ばれたようであるしかし、江戸時代の初期まで、町人は蕎麦を手繰ることができなかったようです。
麺状の蕎麦が食べられるようになったのは、室町から江戸時代の初期といわれています。
江戸時代
高価な蕎麦
蕎麦は、季節の筋目には各諸大名から将軍家へ献上されるほどの高価な食べ物となり、献上された記録も残っています。
江戸時代の前半までは蕎麦よりうどんが主流だったらしいく、蕎麦も食べられてはいましたが、うどん屋が蕎麦も売っている程度のようです。なお、当時醤油は高価だったため、一般的に出回るようになるまで蕎麦つゆは味噌で作られていたようです。
蕎麦屋の数と蕎麦の値段
江戸の町において蕎麦がうどんより食べられるようになったのは、18世紀中頃からだといわれています。
「江戸八百八町(はっぴゃくやちょう)に蕎麦屋は数え切れないくらい江戸中に蕎麦屋が増え、屋台の蕎麦も出てきました。
江戸時代の後期には、蕎麦粉と小麦粉を混ぜた蕎麦が広く出回り、現在のように茹でる蕎麦が主流となったようです。
それに対して、「十割そば」とは蕎麦粉だけで打った蕎麦のことであり、つなぎにくく二八蕎麦よりも切れやすいので当時は蒸籠に乗せて蒸し、そのまま客に供するのが主流だったようです。
現在も「盛りそば」を「せいろそば」と呼ぶのはその名残であります。
のれんや看板に「生蕎麦」と書かれた店は、本来つなぎ粉無しの十割そばの店という事のようですが、現在は二八の蕎麦屋でも「生蕎麦」と表記しているようです。
では、当時どのくらいの店の数かと言うと3千軒とも言われています。一杯の蕎麦値段は、当時のそばの相場は享保で6文~8文嘉永・安政で16文である。16文(320円)2×6=16なので16文と言う説もあります。
蕎麦切りの起源
現在のところ、そば切りの所見は長野県木曽郡の常勝寺で発見された記録(「常勝寺文書」)のようで。戦国時代の大正2年(1574)同寺で行われた工事の際に、寄贈されたそば切りが振る舞われたと書かれています。
蕎麦屋
蕎麦屋の起源 大阪発祥説
宝暦7年(1757)「大阪新町細見之図 澪標」の記述によると、大阪・新町遊郭近くの通称砂場というところに「和泉谷」と「津国屋」という2件の蕎麦屋があったようです。
ともに「砂場」という俗称で呼ばれていたが、このうち「津国屋」の創業年について、嘉永2年(1849)刊の「二千年袖鑒」という本が天生12年(1584)と書かれています。
もしこれが事実とすればわが国最古の蕎麦屋になるというわけで、そば屋の東西本家論争の火種となりました。
老舗御三家
江戸も中後期になると、町には数え切れないほどの蕎麦屋があったが、そのなかでも代々続いている「老舗御三家」、俗にいう「江戸の三大蕎麦」は現在も人気です。
「藪(やぶ)」「更科(さらしな)」「砂場(すなば)」が三大蕎麦と言われています。
「藪」の由来は、諸説あるが雑司ヶ谷近くに藪があり、その中の農家で食べさせてくれる蕎麦がうまいと評判で、雑司ヶ谷の名物になり、藪蕎麦と呼ばれるようになったという説が有力です。
1750年ぐらいには美味しい蕎麦の代名詞になっていました。
「更科」は、蕎麦の産地である信州更級から1字を頂きお店を出した麻布に屋敷を構えていた保科家から1字を頂き「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げたのが最初です。
「砂場」の由来は、大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」によるものとされる。
しかし、大阪が発祥のはずですが江戸に進出して江戸で発展してきました。
現在日本で一番古い蕎麦屋
京都 「本家尾張屋 本店」 で創業は1465年(寛正6年)、室町時代です。
東京で一番古い蕎麦屋
虎ノ門の「巴町砂場」さんです。巴町砂場さんの創業は不明ですが1815年(文化12年)の古い書物に「久保田町砂場」の名前で出てくるようです。
以来約150年変わらず東京で老舗としてお店を守って来ています。
主な参考書籍「改訂そば打ち教本」より引用
まとめ
一口に蕎麦といっても長い歴史の中で培われ、現在に至っていますが、歴史を紐解くことで、時代ごとの蕎麦の移り変わりも見えてきます。
そして、ふだん何気なく食べていた蕎麦は、長い時間と人々の工夫により現在に至っているのだと感じ、蕎麦に対する考え方も変わってきます。
「そば切り」は各地域により打ち方や食べ方も違い、それぞれ人々に伝承されているようです。これらを食べ歩くのも蕎麦の勉強になり楽しいと思います。